草野本家の歴史
草野本家とは
江戸期の草野本家全景日田草野氏は古くは古代筑後国の領主であり(白雉年間=7世紀)その子孫が12世紀筑後国在国司、押領司に任じられ竹井城主となり、その後発心城主となりました。
天正16年豊臣秀吉の九州征伐の折落城し、当主草野家清は熊本県南関にて謀殺されたと久留米市史に記載されています。落城に伴い一族は九州各地に離散し、その一部が日田の草場に逃れて移り住み、徳川治世となった寛永18年(1641年)豆田町に屋敷を構え、元禄9年(1696年~元禄元年との説もある)現在地に新居を建て現在に至っています。
屋号は「枡屋」と称し、荷印(今でいうトレードマーク)を田(かくじゅう)と定め、精蝋業を行い大いに繁栄しました。
江戸後期には郡代(幕府直轄地の代官)御用達の掛屋を務めるほか、窮民の救済や治水等の公益事業にも力を尽くしたことから、市内港町に石碑が建立されており、日田市先哲にも公益事業化として7代前の当主が加えられています。
ここ八代は忠右衛門を襲名しており、親交のあった広瀬淡窓が当家の家憲(仏教篤信と親孝行)を書したものがあり、家宝として大切に保管されています。
昭和から平成の主な修理経過
草野家住宅は江戸時代元禄の頃現在地に創建されて以来明治中期まで増改築をされた建造物です。従って建築後300年近いものから新しいところでも100年以上が経過し、老朽化が進んでいます。
昭和60年大分県指定有形文化財になったことを機に玄関棟が2年かけて修復され、次いで平成7年から4年の歳月をかけて座敷蔵の大修理が行われました。
その後老朽化の進行を食い止めるため屋根瓦の葺き替え(平成14年)や新座敷棟の床の間修理、併せて来客用の湯殿と便所(主として武家用で刀掛が設置されている)の修繕が行われました。(平成21年)
今後国指定重要文化財としておよそ10年をかけての全面保存修理が予定されています。
草野家住宅と煎茶道
煎茶道は中国から戦国末期黄檗宗隠元禅師によって我が国にもたらされ、江戸後期から明治時代にかけて広く文人に好まれたと言われています。日田においても掛屋衆を中心に煎茶趣味が広く好まれ、草野本家においても随分と嗜まれたと伝わっています。
京焼の名工青木木米作と伝えられる「白磁鳳凰文茶瓶」など多くの煎茶道具が残されています。現在する大正3年(1914年)の煎茶会の様子を描いた絵巻は文人市長として著名であった初代久留米市長内藤新吾氏(寒山逸史)の手によるものです。