草野本家について

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草野本家の歴史

History of KUSANO-HONKE

江戸期の草野本家全景

草野氏は古来筑後国の領主とされ、12世紀に至り筑後国在国司、押領司に任じられ、竹井城次いで発心嶽城の城主となりました。
 
その後、天正16年(1588年)豊臣秀吉の九州征伐の折、竜造寺家の下でこれに立ち向かうも当主草野家清が熊本県南関の庄屋において謀殺され落城した、と久留米市史に記載されています。落城の結果一族は九州各地に離散しましたが、そのうちの一部が日田の草場に落ち延びたと伝わっています。
 
その後徳川政権になった寛永18年(1641年)豆田町に間口6間の店舗を構え、元禄9年(1696年)現在地に新居を建て今日に至っています。

当時の提灯入れに書かれた 田 かくじゅうの印

豆田町出店に伴い屋号を「升屋」(ますや)荷印を「田」(かくじゅう)と定め、生蝋製造業を行い大いに繁盛しました。有名になりましたひな人形の多くは商用で京、大坂へ出向いた際購入してきたものと伝わっています。
 
江戸時代後期には郡代(幕府直轄地の代官)御用達として公金を扱える掛屋も務めました。この間窮民の救済や治水にも取り組み日田市の先哲にも数えられています。
 
私塾咸宜園を開いた広瀬淡窓とは交流が深く、先祖の多くが咸宜園で学んでおり、淡窓自ら草野家の家憲を書き記しており大切に保管されています。
日田草野家の初代が忠右衛門と名乗り当代まで12代を数えています。

昭和から平成の主な修理経過

History

草野家住宅は江戸時代元禄の頃現在地に創建されて以来明治中期まで増改築をされた建造物です。従って建築後300年近いものから新しいところでも100年以上が経過し、老朽化が進んでいました。
 
昭和60年大分県指定有形文化財になったことを機に玄関棟が2年かけて修復され、次いで平成7年から4年の歳月をかけて座敷蔵の大修理が行われました。
 
その後老朽化の進行を食い止めるため屋根瓦の葺き替え(平成14年)や新座敷棟の床の間修理、併せて来客用の湯殿と便所(主として武家用で刀掛が設置されている)の修繕が行われました。(平成21年)
 

平成から令和にかけ 7年の大修復

History2

2015年(平成27年)35日に工事着手し、約7年の長い歳月を経て、2022年(令和4年)1月31日に草野家住宅保存修理工事が完成しました。
 
草野家住宅は江戸時代元禄の頃、現在地に創建されて以来、明治中期まで増改築をされた建造物です。従って建築後300年近いものから、新しいところでも100年以上経過し、老朽化が進んでいました。いろんな時代の建造物があるため、調査を進めながら、どの時代の草野家住宅に保存修理するか決めていきました。
 
この工事には選りすぐりの職人、現代の名工、ひた伝統技能マイスター等々、延べ6,758人の大工が携わりました。玄関棟など表通りに面する居蔵造りの外壁は重厚感のある黒漆喰塗りで丁寧に仕上げられています。豆田町のランドマークだったなまこ壁も復元されました。
 
一方、天保2年(1831年)増築の蔵は対称的に白漆喰塗りで仕上げられ国宝姫路城と同じ仕様とのことです。黒と白の漆喰の違いをお楽しみください。
 
草野家住宅は、今後100年、200年と日田市を代表する歴史文化遺産です。

草野家住宅と煎茶道

Senchado

煎茶道は中国から江戸初期黄檗宗隠元禅師によって我が国にもたらされ、江戸後期から明治時代にかけて広く文人に好まれたと言われています。日田においても掛屋衆を中心に煎茶趣味が広く好まれ、草野本家においても随分と嗜まれたと伝わっています。
 
京焼の名工青木木米作と伝えられる「白磁鳳凰文茶瓶」など多くの煎茶道具が残されています。現在する大正3年(1914年)の煎茶会の様子を描いた絵巻は文人市長として著名であった初代久留米市長内藤新吾氏(寒山逸史)の手によるものです。

国指定重要文化財

Nationally designated

 

国の重要文化財に指定

重要文化財指定書平成21年12月8日「草野家住宅」として、主屋1棟・蔵3棟及び庭園が国指定重要文化財に決定し、平成22年4月13日に文部科学大臣の指定書が届きました。庭園も含め1,599平米全体が国の重要文化財です。
 
指定された建物(主屋1棟、土蔵3棟)のうち、主屋は玄関部、店舗部、客間部、新座敷部、隠宅部、仏間部からなります。最も古いものは享保10年(1725)頃建築の主屋仏間部で、次いで土蔵1棟が享保16年(1731)建築であり、いずれも保存状態は良好。また、通りに面して建つ玄関部、店舗部などは明和9年(1772)の豆田町大火直後に建てられており、漆喰塗大壁(しっくいぬりおおかべ)で防火性の高い居蔵造(いぐらづくり)とし、重厚な外観を呈しています。
 
一方、主屋後方に位置する客間部、隠宅部などは幕末から明治・大正期にかけて増築されたもので、庭園とは一体となった明るく開放的な構成をもち、玄関部や店舗部とは対照的な造りとなっています。こうした開放的空間構成や、文人画の小襖、竹、唐木、奇木などの材種で華やかに整えられた室内意匠には当時日田で親しまれた煎茶席の建築的特徴が認められます。
北部九州における代表的居蔵造町屋であり、近世から近代にかけての都市住宅の変遷や商家の生活文化を伝える大型の町家建築として高く評価されています。
 
平成21年12月8日指定
日田教育委員会

 

大分県指定文化財

Prefectural designated

大分県指定文化財「草野文書」

草野文書
草野家に伝わる古文書で、足利尊氏の書簡や二代将軍足利義詮による直義追討の書簡なども含まれており歴史的にも貴重な資料です。
東京大学史料編纂所による調査も行われました。
 
足利尊氏の書簡は密書と伝わっており、その内容は南北朝動乱期を彷彿とさせてくれます。


明治23年に東京帝国大学が調査しました。これは草野文書第二巻の巻末に収納されています。