伝・豊臣秀長の鎧
TOYOTOMI HIDENAGA's armor
豊臣秀長の当世具足
草野本家に伝わる当世具足(※1)を、当代随一の甲冑(かっちゅう)師第25世明珍宗恭氏(※2)に修理をゆだね、2002年8月完成しましたが、修理の際驚くべき発見がありました。
兜の修理にあたり明珍氏が兜の裏の覆いを丹念に剥がしたところお札が貼ってあり、そこにはなんと「勝軍治要法御守秀長加護 天正十五年」と、豊臣秀吉の弟秀長の名前がしっかりと記載されていたのでした。
甲胄(かっちゅう)研究家の石田氏によると、このお札は京都吉田神社によって発行されたもので、大阪城天守閣博物館に保存されている織田信長の吉田神宮に対するお礼状の中に同じ「勝軍治要法~」のお礼をもらった、と記されています。
この鎧と仙台にある唯一秀吉の鎧と確認されているものとは大きさがほとんど同じだそうです。秀吉が小柄であったことは知られていますが、弟の秀長は幼少の頃『小一郎』と呼ばれていたので兄弟で小柄だったのではないかと石田氏は推測しています。
また、国宝の鎧の修復など1000領以上の鎧を手がけた明珍氏も、ほぼ間違いないであろうとの見解で、もし証明されれば日本でただ一つのものと言うことになります。
(※1)鎧の正式名称・・・金小札紫糸威二枚胴具足(きんこざねむらさきいとおどしにまいどうぐそく)
(※2)明珍宗恭氏・・・代々甲冑師であった江戸明珍家の第25世で、平成22年吉川英治文化賞を受賞
修復報告会
Restoration report
平成15年4月29日明珍宗恭氏および甲冑研究家石田謙司氏を招き草野本家奥座敷において修復報告会が開催されました。
兜裏のお札については京都吉田神社は明治維新の際資料が散逸し調査不能との回答がありました。
東京大学史料編纂所のアドバイスによれば、
「豊臣秀長は天正15年九州に遠征しており豊後から日向に兵を進めているので大分県に兜があっても不思議はない。また、奈良春田派の作、ということは秀長の領地が大和郡山であることから当然考えられる。また、織田信長が武田攻めの際吉田神社からお札をもらっており秀吉九州征伐の副将格である秀長がお札をもらっていたとしても何ら不思議はない。」
ということです。
また、草野本家の先祖草野家清は天正16年に熊本県南関にて秀吉に謀殺されたと久留米市史に記されており、秀長との接点もあったと考えられます。従って状況証拠はかなり出そろったと見ることができます。
今後も調査を進めていく予定です。